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2023-09

ごあいさつ

世の中、数あるブログの中から、私のブログをご覧くださいまして、ありがとうございます。

私は、韓国語と中国語の翻訳をやっております。
韓国語の翻訳は、始めてから、なんだかんだで10年ほどになりますが、中国語はまだ半年ほどのひよっこです。

韓国語だけの頃は、ほかの仕事と二足のわらじでやっていましたが、中国語のお仕事を多くいただくようになってから、徐々にいただくお仕事の量が増え、「これはもしかして、翻訳だけでやっていけんじゃね?」という、乱暴な考えに至り、今はもっぱら自宅で仕事をしています。

そうしてみて分かったことですが、ずっと自宅にいると、独り者である私の話を聞いてくれる人がいません。そこで、日々の出来事を聞いていただこうと思い、ブログを書き綴ろうという訳です。なんだかすみません。

翻訳をやっているというと、多くの方は、本とか映画を思い浮かべるようですが、私がやっている仕事は、「訳者」として私の名前が世に出るような仕事ではありません。産業翻訳といって、工場でのものづくりとか、医薬品の臨床試験とか、特許の明細書とか、企業のWebサイトとか、最近では来日する外国人向けの仕事も多くなっていますが、いずれにせよ、完全に裏方の仕事です。

そのため、基本的には秘密厳守であって、「今こんな仕事やっててさあ」なんて大きな声で語るべきではなく、私は世をはばかって生きて行かなければならない身の上…と、そんな大げさなものではありませんが、「翻訳面白ばなし」みたいなことは、ここではたぶん、あまり書きません。

あ、そうそう。大事なこと。
翻訳者としてのスペックは、こんな感じです。

対応言語:韓→日 日→韓 中→日(簡体字・繁体字とも可)
対応分野:医薬・化学・電気・機械・観光・ゲーム・各種マニュアル・ビジネス文書等
       (それ以外でもどうぞご相談下さい)
資格等:韓国語能力試験6級合格
     TQE翻訳実務検定合格(科学技術/日韓・韓日)
     中日ビジネス一般翻訳能力検定試験2級合格
     日本語教育能力検定試験合格

もし万が一、これをご覧になって、お仕事のご相談をいただけるような、ありがたいお話がありましたら、下記のアドレスへメールをいただければ幸いです。
yosh**.tra**@jcom.zaq.ne.jp(クリックすると、正しいアドレスが入ります)

2014年9月から2015年10月まで中国語のレベルアップのために北京に留学しておりましたが、その時に書いたものも「にぎやかし」に残しておきますので、「ああ、こんなことがあったのですね」とでも思っていただければ幸いです。

「きちい」こと 吉井成輔 拝

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昭和歌謡

今日、スーパーの店内放送で、チェッカーズの「涙のリクエスト」を、元気のいい女の子たちがカバーしているのを聞きました。
うちに帰って調べてみると、どうやら、カントリーガールズというらしいですね。

嗣永桃子(ももち。ああ見えて、けっこうできる子)をリーダーに、あとは、14歳から18歳のむすめっ子たち6人組らしい。

「涙のリクエスト」が大ヒットしたのは、私が小学生高学年の頃でした。

最後のコインに祈りを込めてmidnight DJ
ダイヤル回す あの子に伝えてまだ好きだよと


という、まあ我々世代は誰でも口ずさめる、おなじみの歌詞ですが、たったこれだけでも、むすめっ子たちがどれほど理解して歌っているのか?というのが気になりました。

まず、この歌詞の中に明示されていないけれども、この時代には当然であった「大前提」として、

深夜放送のラジオ番組に、曲をリクエストするための媒体が「電話」。
当時、FAXでさえ一般家庭にはなく、ラジオ局では受付オペレーターをずらり揃えて、リスナーの電話を受け付けていました。

そして使うのは、最後のコイン。
→携帯電話なんてありません。公衆電話からかけるのです。そして、テレホンカードは存在せず、使うのはもっぱら10円玉でした。なお、100円玉を入れると、おつりがでません。

さらに、ダイヤル回す。
→公衆電話でも、ダイヤル式が主流でした。ちょっと前に、小学生ぐらいの男の子が、ダイヤル式ピンク電話の数字を押してかけようとしているのを見たことがありますが、今ではそのぐらいダイヤル回しません。

その後に続く、「トランジスタのヴォリューム上げて」も、文脈としては「うどんの白飯を炊いて」ぐらい奇妙なのですが、これは「トランジスタラジオのヴォリュームを上げて」の略なので、良しとします。


流行歌というのは、その時代の一部分を切り取り、それを背景として感情を描くものだからこそ、人々が共感して流行歌たりえる訳ですが、たった8小節の間に、今のむすめっ子は知る由もない要素が、ふんだんに盛り込まれている「涙のリクエスト」は、やはり大したもんです。

そのほか、今、ふと気づくと、あれ?と思う曲として、小林明子「恋におちて」なんてのもあります。

土曜の夜と日曜の
貴方がいつも欲しいから

→土曜は昼まで仕事する「半ドン」が一般的だったので、土日まるまるもらっちゃう訳にいかなかったのです。

それから、かなり好きなのが、ちあきなおみの「喝采」。
この世界は、さすがに私の子どもの頃の東京近郊には存在しませんでしたが、福島あたりまで行けばまだありました。

あれは三年前 止めるあなた駅に残し
動きはじめた汽車に ひとり飛び乗った

→動き始めた汽車に飛び乗れたんですな。

今は「旧型客車」と言ったりしますが、昔の、機関車に引っ張られて走る客車のドアは手動で、施錠されませんでした。ガチャンと閉めれば閉まるけど、閉めなければ、走っている最中だって開けっ放し(参考写真)なので、止めるあなたを駅に残して飛び乗れたのです。

「喝采」が発表された1972年当時は、こういう客車が、誰もが当たり前に思い浮かべられる存在だったってことなんでしょう。

とまあ、そんな話で。
今は当たり前のことであっても、30年後の人々には想像もつかないことってあるんだろうね。

上司「昔はバリウムっての飲んで、ぐるぐる回されたもんだ」
部下「いや、なんすか、それ。マジ無理っす」

みたいな会話があったりして。
まあ、こんなのは歌にはなりませんが。

やれやれ、おしまいです。

砥沢空想記

20160928tozawa.jpg

これは、今から80年以上前、昭和4年版の群馬県の地形図である。

「利根郡赤城根(あかぎね)村大字根利(ねり)字砥沢(とざわ)」という所で、その後、昭和と平成、二度の市町村合併を経て、現在は「沼田市利根町根利字トザワ」と変わっている。後述の理由により、たぶん今は「トザワ」とカタカナで書くのが正しいのだと思う。

「沼田市利根町根利字トザワ」という地名を見てピンと来た人がいれば、その人はよほどのマニアである。この場所がどういう場所であるのか、それは追って説明する。

地形図によると、「砥澤」は標高1100~1200メートル、その名も「砥沢」という沢の合流地点に開けた小さな集落である。小さいながらも、学校や、地図に描かれるほどの神社もあり、ここで多くの人が暮らし、賑わっていたことが窺い知れる。しかし、現在はといえば、完全に無住の山林である。

下は、今の地形図であるが、1168メートルの標高点が打たれ、傾斜が若干緩くなった場所が砥沢集落跡である。地図の範囲を広げてみると分かるが、国道120号線、吹割の滝近くの追貝(おっかい)集落から栗原川に沿って10キロ以上遡るという、人里離れたものすごい場所である。



なぜ、このようなところにかつて集落があり、今はなくなってしまったのか。


砥沢集落跡の北東に連なる尾根を越えた反対側は栃木県足尾である。

明治の中頃から、古河財閥の手によって足尾銅山の開発が進められ、建物を建てるために大量の木材が必要となった。しかし、足尾周辺の山の木だけではその需要をまかない切れなかった。そこで、明治31年に皇海山(すかいさん)の西麓に古河の手による根利林業所が設けられ、群馬県側の木材が山を越えて足尾へと運ばれた。

そうしてできたのが、砥沢と平滝をはじめとする、いくつかの集落であった。そういう成り立ちであったため、群馬県側との連絡はそもそも必要なかったのである。

しかし、これらの林業所は開設から40年ほどを経てその役目を終え、昭和13年から14年にかけて閉鎖された。そして、働いていた人々も山を下り、元の山林に戻って今に至ると、そういう訳である。国土地理院のWebサイトで航空写真を見ることができるが、最も古くて昭和22年のものなので、砥沢集落の姿を見ることはできない。

「群馬県 砥沢」と検索すると、山登りや渓流釣りを趣味とする人のページがいくつか見つかり、砥沢集落跡を探索したレポートも上がっている。現地には、集落があったことを伝えるステンレス製の記念碑も残されているようである。

さて、そろそろ本題。先ほど述べたように、根利林業所には砥沢ともう一つ、平滝という大きな集落もあったのだが、なぜ敢えて砥沢に重点を置いて語っているのか。それは、砥沢は、現在においても特別な場所だからである。


唐突だが、「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」、いわゆる「風営法」である。これに付随して各都道府県が定める「施行条例」というものがあり、これにより「1号営業」(お風呂屋さん、あるいはソー●ランド)の営業許可区域を定めている。ただし、「既に営業しているものは続けて構わない」というだけで、新規開業が許されている訳ではない。

群馬県が定めた営業許可区域というのは、以下のとおりである。

沼田市利根町根利字トザワ区域と、前橋市、高崎市、桐生市、伊勢崎市、太田市、館林市、渋川市、藤岡市、富岡市、安中市、みどり市、北群馬郡、多野郡、甘楽郡、吾妻郡、利根郡、佐波郡、邑楽郡以外の地域

トザワと表記するのが正式らしいが、なんと、砥沢では現在においても、「お風呂屋さん営業OK」ということになっているのである。

上記の記載を読み解くと、砥沢以外は、「~以外の地域」となっている。ここに書かれた市と郡“以外”となると、もう沼田市しか残っておらず、その沼田市の中でも「トザワ」と名指しされているのだから、群馬県内で唯一、砥沢でだけ、風営法に基づくお風呂屋さんを営業していいということになる。しかし、既に述べたように現在の砥沢は無住の山林であり、当然のことながら、営業中の店舗などあるはずがない。

風営法が施行されたのは昭和23年である。しかし、根利林業所が閉鎖されたのはその10年ほど前であって、法律の施行時には砥沢集落はもう存在していなかった。それなら、なぜ「トザワ」という記述があるのだろうか。

調べてみると、風営法の施行以前は、現在の自治体の条例に相当する府県令に基づいて、警察がそれらの業種を取り締っていたそうで、風営法施行条例の条文作成にあたり、群馬県令の記述をそのまま引き継いだということは想像に難くない。おそらく、県令において、既に「砥沢でだけは営業していいよ」ということが書かれていたのだろう。そうであれば、「砥沢にはそういう店が存在していた」という解釈ができる。

そう考えると、当時の砥沢集落はどんな所だったのだろう?と俄然気になってくる。この辺りからは、私の空想が多分に含まれるので、事実と違う可能性もある。予めご承知おきいただきたい。


林業集落で主として働くのは男たちである。学校があったのだから、家族で移住してきた人もいたのだろうが、独身男性の割合も相当高かったことだろう。全盛期には根利林業所全体で1500人ほどの人が働いていたようだし、男性の数が多ければ、花街が形成されるのは当然の成り行きである。

根利林業所のもう一つの大きな集落であった平滝にも、おそらく飲み屋街はあったであろう。しかし、現在の営業許可区域に「平滝」という地名が残っていないことを考えると、お風呂屋さんがあったのは砥沢だけだったのだろうと思われる。そういう意味で、砥沢は、根利林業所の中でも特別な場所だったのである。

下に貼ったのが、冒頭に載せた昭和4年の地形図全体であるが、左下の紙面ぎりぎりの所に砥沢集落があり、そこから真っ直ぐ北へ、平滝とを結ぶ山道が描かれている。見てのとおり、砥沢と平滝は全く違う、遠く離れた谷筋にあり、尾根伝いに歩いて行ける位置関係ではない。その道のりは、標高1525メートルの延間(えんま)峠を最高地点として、山を都合3つ越えるという途轍もないもので、距離は、おそらく10キロ近くに達するのではないかと思われる。


しかし、祭りの時期ともなると、平滝の男たちはそんな険しい道のりをものともせず、砥沢へやってくる。真っ黒に日焼けした山の男たちが、「砥沢へ繰り出すぞ!」とばかりに、続々と山を越えてくるのだ。

そして、夜の花街には灯がともり、その明るさたるや昼間と見まごうばかり。平滝の男たちは砥沢の仲間たちとの再会を祝し、そして楽しい砥沢の夜を過ごして、翌朝、山を越えて帰っていく。


今から80年近く前まで、砥沢ではそんなことが起きていたのではないだろうか。

誰かに当時の話を聞いてみたいものだが、なにぶん80年前の出来事であり、それも他所から人々が集まってきていた作業場の集落である。居住していた人も、閉鎖後は散り散りになってしまった可能性が高く、当時を知る人に出会うのは相当に困難であると思われる。

群馬方面へ行く機会があれば、図書館で資料を漁ってみようかとも思うが、そんな業種のことが、出版されている書物に詳しく書かれているとは考えにくく、想像の域を出ることはないのかな…と思う。あとは、県文書館とかで、風営法施行条例の元となった県令を定める際の県議会の議事録にあたってみるとか。大変だ。

でも、想像するだけでも十分楽しいので、まあこれでいいのかもしれないけどね。

韓国語は大変

前回お話ししたように、韓国語は日本人にとって、比較的易しい外国語です。

しかし、韓国語の翻訳というのは難しいのです。中国語よりも簡単だと言っておきながら、どういうことか。

ここ数年、外国人観光客の増加を受けて、観光客向けに「日本国内で使用する韓国語表記」の仕事が多くなっています。観光地へ行っても、英語のほか、中国語や韓国語の案内表示をよく見かけますし、多言語表記のガイドマップやフリーペーパーなども多く発行されています。

それ以外にも、外国人が多く居住する地域では、公共の案内表示や広報物が多言語表記になってるなんてこともよくあります。

ところが、困ったことに、韓国語に関しては、それを表示したり印刷物として発行している自治体や企業、あるいはそれらを製作する担当者が、「何と書かれているのかわからない」のです。中国語の場合、「読めないけど、なんかこの部分、違ってない?」という気配を感じることもありそうですが、ハングルはそうはいきません。

そのため、どうなるかというと、スケジュールや予算の問題などで、翻訳者が訳した後、校正者のチェックが入らないような場合は、翻訳者が誤訳をしたら、そのまま通ってしまいます。

また、翻訳・校正の段階で正しい原稿であったとしても、途中に手書きの修正が入ったとか、その他何らかの工程上の都合で、上がってきた原稿をそのまま組版に使用しないような場合に、字を間違って当ててしまうケースもあります。

観光地の案内であれば、それを見た韓国人は、その後すぐ帰国してしまうので、間違いの指摘はされません。また、居住者向けの案内表示の場合も、間違っていても言いたいことはわかるし、外国人がわざわざ役所に連絡して間違いを指摘するとは思えません。

そのため、間違った表記はそのまま、そこに残り続けることになります。


先月の下旬、弘前城の桜を見に行ってきました。時は「さくらまつり」の真っ最中。外国人の姿も多く、英語をはじめ、中国語、韓国語、タイ語、ベトナム語など、さまざまな外国語が飛び交っていました。

公園内の案内図は、英語、中国語(簡体字・繁体字)、韓国語の多言語表記になっているのですが、こんなのを見つけました。

20160516kuruwa.jpg

「北の郭(くるわ)」というのは弘前城の本丸に続く北側の城郭です。ところが、この韓国語、「キタノクルワ遊郭」と書かれているんです。「くるわ」は、落語の「くるわばなし」のように、「遊郭」という意味で使われることもありますが、「北の郭」の場合は「城郭」と訳すのが適切です。この案内図がいつからあるのかは分かりませんが、設置者が読めないので、この大きな間違いに気づかれません。

これが韓国語翻訳の難しいところです。中国語の翻訳者が「遊郭」の意味で誤訳した場合、おそらく「妓」という字が入りそうですが、そうであれば、担当者も「なんか違うんじゃね?」と気付けたかもしれません。

翻訳者として、わざわざ日本を訪れてくれた人に、みっともない間違いを見せたくはないので、こういうのを見つけたら、設置者に連絡することにしています。

弘前城の例は、誤訳がそのまま通ってしまった例ですが、私の地元、松戸市には、看板製作の段階で間違った字が当てられてしまったものがあります。

駅前広場によく立てられている注意書きです。

20160516mulgonmul.jpg

文字が間違っている箇所を赤くして、正しく書いてみると、
이 장소서는 물건 판매하거나 설치・배부하는 것 금지합니다 
となります。ㅇとㅁの区別が曖昧なところを見ると、原稿が手書きだったのかもしれません。韓国のホテルで、ルームサービスの案内に「ビール」と書くべきところを「ゼール」と書いてあったのを見たことがありますが、それと同じことでしょう。

加えて、文節ごとにスペースを空ける「分かち書き」も正しくなく、内容の上でも、日本語版に書かれている「許可なく」が抜けていて、意味が不十分です。

中国語も、意味は通じますが、「許可されてないとね、」みたいな感じの口語調で、書き言葉としては不適切です。文の作り方から察するに、日本人が訳したのではないかと思います。

松戸市の場合、同じ看板でも、正しい文章を貼って修正してある所もあるし、間違ったままの所もあるので、「ま、別にいいや」と思って、市には連絡していません。

そんな訳で、韓国語の翻訳は、ある意味、難しいという話です。

20160516iwakisan.jpg
弘前城から見た、桜越しの岩木山。the日本。

言葉って面白い

日本語と韓国語は非常によく似ています。

文法構造はほとんど同じですし、語彙も特に漢字語を中心に同じものが多いので、日本人と韓国人とでは、互いの言語を比較的容易に習得できます。

私はもともと、韓国語の翻訳業務のみをやっていましたが、日本語とは構造や考え方が全く異なる中国語の翻訳を始めて、その難易度の高さにぶつかったとき、「これまで、楽な仕事でお金もらっててすみませんでした」という気持ちになりました。

昨年10月まで北京で中国語を学んでいましたが、日本人と韓国人のクラスメイトの間では、それぞれ互いの言語の方が、中国語よりも習得が早かったほどです。

どのぐらい似ているかというと、

約束 - 약속(ヤクソク)
調味料 - 조미료(チョミリョ)
高速道路 - 고속도로(コソクトロ)

とか。ほかにも様々ありますが、たぶん、韓国語を知らない人が聞き流していても、「今、高速道路って言った?」って聞き取れるぐらいです。音だけでなく、たいがいの漢字語は、意味も一緒です。

日本と朝鮮半島は、中国から漢字の読みと意味が伝来した時期が近く、さらに、日韓間で直接伝わったものも多いため、このように似たものが多いのです。

一方、本家中国では、その後長い時間を経て、意味も読みも変化しました。例えば「約束」の場合、日韓間では読みも意味も同じですが、現代中国語では「ユエシュー」と読み、「束縛する、制限する」という意味で使われます。

つまり、現代中国語へと変化してくる間のある時期における古い形が、日本語と韓国語に残っている訳です。この現象は中国の方言にも存在し、古い形を残す福建語や広東語などでも日本語や韓国語と近い発音があったりします。

そういうような訳で、漢字語については、日韓間で似たものがあるのは容易に理解できます。

ところが、漢字語ではない固有語(日本語の場合、「和語」と言ったりしますが)にも、不思議なことに、互いに音は違うものの、意味範囲が似てるものが多いのです。例えば、

かける - 걸다(コルダ)  物を(壁とかに)掛ける、鍵をかける、命を懸ける、会議にかける、エンジンをかける、望みをかける、電話をかける
きく - 듣다(トゥッタ)   音を聞く、薬が効く
め - 눈(ヌン)  (身体の)目、(網やかごの)目、草木の芽

などなど。英語を思い浮かべてみると、上の「かける」で挙げた動詞が全て同じであるはずがありません。hang、lock、start、callなど、場面によってさまざまな訳が考えられます。

ところが、韓国語では多くの場合、「かける」は「걸다(コルダ)」でいいんです。「きく」にしても、「音を聞く」と「薬が効く」、動作としてどこにも共通点はないはずなのですが、韓国語でもこの2つの動作は、「듣다(トゥッタ)」という同じ動詞を使うのです。それから、

~てみる - ~보다(ポダ)
試しにちょっとやってみるという時に使う「~てみる」と「(目で)見る」には、動作として共通点はありません。韓国語で「~てみる」というのは「~보다(ポダ)」と言いますが、この「보다(ポダ)」を単独で使うと、「見る」という意味になります。


古代のラテン語から派生してイタリア語やスペイン語ができたように、どちらかが先にあって、それがもう一方に伝わったというのであれば、意味範囲だけではなく、発音の上でも共通点があるはずです。しかし、「きく」と「듣다(トゥッタ)」には発音上の共通点がありません。

意味だけが似通っていて音が全然違うということは、どちらかが起源ということは言えません。でも、このような意味範囲の類似性ということを考えてみると、おそらく、日本語と韓国語という2つの言語が発生した非常に古い時代、この2つの民族は、何か身の回りの事象に対する、非常に似通った感覚を持っていたということなのだろうと思います。

これほど似ているのに、日本語と韓国語は系統的に謎の言語と言われ、いまだに、どこから来たのか、その親戚関係が解明されていません。でも、なんとなく、これからも解明されないような気がするし、不思議なままでいいような気もします。

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Author:きちい
韓国語と中国語の翻訳をやってます。

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