2009-05

一期一会

 前に、サイダーを飲み比べて記事を書いてみたことがある。

 その後も、何か新しいサイダー・ラムネ類を見つけるたびに買ってきては飲み比べている。飲んだものの記録をしっかり付けているわけではないが、「おいしかったやつ」「そうでもなかったやつ」「正直言っておいしくなかったやつ」と、だいたい覚えている。

 おいしかったのはと言えば、近所のダイエーで見つけて、いちばん最初に飲んだ北海道の「倉島ミネラルサイダー」。それと、その後に飲んだ、長崎の「BANZAIサイダー」もすっきりしていてよかった。
 一方で、有名どころの「養老サイダー」や「スワンサイダー」などは、案外、なんとも思わなかったりした。

 「倉島ミネラルサイダー」をもう一度飲みたいと思い、どさんこプラザやFOODEX北海道はもちろん、北海道物産展などを見つけると探すのだが、ダイエーで買って飲んだっきり見かけていない。そんなわけなので、一期一会、初めて見るメーカーの製品は、とにかく買って飲んでみなければならない。

 さて今日、三郷のイトーヨーカドーで初めて見るメーカーの製品に出会った。広島県福山市の斎藤飲料工業という会社の製品だったが、それがまた、なんだかこんなやつでして。

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フレッシュプリキュアラムネ。118円也。レジのおばさんは「女のお子さんがいるのね」と思ってくれただろうか。

 今日は野菜とか牛乳とか、ほかに買うものがあったから一緒に買ったが、これ1本だけだったら、さすがにレジに持っていくことができず、煩悶したかもしれない。

 お味はと言えば、期待せずに買った割にはいい感じで、倉島やBANZAIにも似た、飲んだ後に水の味がする、すっきりタイプ。ちょっと後味は残るようだが、好みの味だった。斎藤飲料工業、ちゃんと覚えておこう。

 どうも斎藤飲料工業という会社は、ふつうのラムネのほかにキャラクターものをいろいろと出しているようで、「フレッシュプリキュアラムネ」のほか、「NARUTOラムネ」や「ONE PIECEラムネ」、はたまた猪木とのコラボで「1・2・3サイダァー」なんてのも出している。
 キャラが違うだけで、たぶん味はどれも同じだろうから、再び飲みたくなった時には、特に「フレッシュプリキュアラムネ」を所望しなくてもよいのが、ちょっとした救いと言えるかもしれない。

成田の円筒分水

 今日は雨が降ったりやんだりする中、成田の図書館に行った。

 先日、東金と多古の円筒分水を再訪してきたが、成田にも円筒分水があるということがネット上では情報として書かれている。しかし、それがどこにあるのかわからない。印旛沼を渡る甚兵衛大橋の近くであるということはわかっているのだが。
 そこで、成田の図書館に行けば、印旛沼の干拓、治水、利水に関する資料が豊富にあるだろうと、あたりをつけてやってきた。

 ところが、いろいろと資料をあさってみるものの、用水に関する記述はない。それどころか、座談会の記録みたいな本によると、「この辺りは少し掘ればすぐ井戸水が湧くから水の心配なんてする必要なくて、それよりも台風や大雨のときの排水をするのが、何よりも重要だ」なんてことを言っている。
 確かに、もともと湿地帯であり、さらに、すぐ裏は成田ニュータウンがのっかる高台があるので、崖線からの湧水も豊富だろう。

 もしかして、円筒分水なんてないんじゃないのか?と疑いながらも、成田市の住宅地図を見てみたら、印旛沼からそう遠くないあるところに、「階段の上にある丸いもの」が描かれていた。何かクサイものと感じて、さっそく行ってみた。
 今日は天気が悪かったから車で来たけれど、天気がよければ電車で来るつもりだった(車で遠出するのはあんまり好きじゃない)。電車で来てたら、簡単に行ってみようとはならなかったわけで、天気が悪くて幸いした。

 さて、目星をつけた場所に来てみたら、大当たり。コンクリートブロックで造成した崖の上から、ジャバジャバと水の音がする。ただし、そこへ上る階段の柵には鍵がかかっていて、「関係者以外の立入を禁止する」と書かれている。でも、少しだけ斜面をよじ登るとフェンスが途切れているので、そこから…ね、ちょっとだけ。
 こういう場合、「立入禁止」と書かれていない裏側とかからうっかり入り込んでしまった場合にはセーフだろうが、今回の場合はきっとアウト。「フェンスの切れたところには立入禁止と書いてなかったからいいでしょう?」というのはたぶん屁理屈に該当する。

 大きさの測定はしなかったが、東金と多古の中間ぐらいの大きさ。三方に分けていて、比率は13:10:1のようだ。そもそも立入禁止の場所なので、円筒分水自体には厳重な柵は設けられておらず、大量の水が足元を流れていくのを見ていると、吸い込まれそうで、ちょっと恐ろしい感じさえする。
 まあ、そんな場所なので長居は禁物である。数枚の写真を撮影し、思わぬ発見の喜びを胸に、いそいそと退散してきた。

 訪ねたときには雨は上がっていたが、濡れた斜面をよじ登り、藪を歩いたせいでびしょびしょになったが、しっとりと落ち着いた空気の中を、轟々と水が流れる音だけが聞こえる。水関連の施設は雨の日にはいっそう趣を増すものなのかもしれない。

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場所は、とある谷津田の入口あたり。水の勢いに、カメラを構える手も緊張する。

 これを読んで下さっている方に立入禁止の場所に入ることをお勧めするのは本意ではないので、場所は公表しないでおきます。ただ、ゼンリンの住宅地図や、一部のネット地図では、「見る人が見ればちゃんとわかる」形が描かれています。

荒川沿いの廃村を歩く。(その1 さいたま市桜区塚本)

※この記事は2007年10月頃に訪問した際の記録です。そのため、現状は変わっている部分もあるかもしれません。

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 浦和と川越の廃村を探索した。

 埼玉の、秩父の山奥でもないところで廃村とは奇妙な感じもするが、荒川の左岸(=東側)、堤外(ていがい)と呼ばれる場所に、そこはある。堤外というのは堤防の川側、つまり河川敷。川側のほうが「堤内」のような気もするが、堤防というのは、住人が水の脅威から守るために築くものなので、堤防によって囲われる集落の側が「堤内」、川の側が「堤外」と呼ばれる。

 荒川は、多くの河川敷の中でも民有地が多いことが特徴なのだそうだ。民有地が多いということは、「利用価値がある」土地だったということで、水の脅威に侵される堤外にも田畑があり、人も住んでいた。その堤外集落が2か所、水害防止の観点から国の補償を受けて、全戸移転し、現在は廃村になっている。


 1つ目の堤外廃村は、さいたま市桜区塚本字外西、外東という辺り。浦和北高校の裏手から荒川の堤防を越えた所にある。そこに数軒の農家があり、人が住んでいた。全戸移転したのは10年以上前のことらしい。
 
 ふつう、河川敷の農地と言えば、大規模な干拓によって、十字に交わる道がどこまでもまっすぐに続いていたりするものだが、ここの地図に描かれている道のカーブや分岐は、明らかに人の営みを感じさせるものであり、「薬師堂」などという文字も見える。人が居住していた名残として地図には地番も記載されている。地図を見ていてどんなところだか前から気になっていた。



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堤防から上流を見る。この左側が堤外。


 堤防を越えると何もない田畑だけの景色が広がりそうなものだが、ここの場合、下の写真のような、人のにおいのする道がその先に続く。
 家はもうすっかり取り壊されてしまっていて1軒も残っていないが、田畑は残っており、引き続き、耕作されている。誰も住んでいないのになぜか安心できる、あるいは、なぜか安心できる感じがするのに誰もいないという、不思議な空気を感じる。 聞こえるのは風にそよぐ草木の音と鳥の声だけである。

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区画整理された耕地にはありえないカーブ。門扉が残っている。ここに人が住んでいた。

 
 人が住むところにはお寺や神社があるもので、薬師堂と八幡神社がある。特に、薬師堂のマキの木は、市の天然記念物にも指定されている巨木である。

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門の右側にある巨木が「薬師堂のマキ」。入って左手にはお墓もある。 「薬師堂のマキ」説明板。幾多の水害にも耐えて来たのだろう。
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八幡様の鳥居。平成元年に建てられたものだが、奥は荒れ放題。 藪の奥に小さな祠があっておしまい。


 八幡様の近くには、淀んだ池のようになった川が流れていて、道には橋が架かっている。ちょうど私が歩いて行くと、道を横断していた亀がいそいそと藪の中へもぐっていった。道すがら、数匹のカマキリと、なんとタヌキにも遭遇した。自然が豊かだ。

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池のような川。ここも、子どもの遊び場だったのかもしれない。 荒川の水面はすぐそこにある。こんなにも水に近い所に人が住んでいた。


 荒川の河川敷にはところどころ、横堤(よこてい)という、川に対して垂直に長い堤防が築かれている。これは、台風や豪雨で水量が増えた際に、この横堤で区切られた区域に水を滞留させて勢いを弱めることで、下流域の被害を軽減しようというものである(模式図がこのページの中ほどにあります)。
 つまり、堤外集落というのは、構造上、水が溜まるように作られているところに人が住んでいたということになる。いつの頃からか住みついて、先祖代々守ってきた土地だったかもしれないが、やはり、人が住むには適していないのかなあ…、客観的にそう思う。

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村を守ってきた水神様には、今でも花が供えられている。横堤から集落を眺める。人の声が聞こえてきそうだが、誰もいない。

 塚本を後にし、川越の廃村へと向かう。

 (2)へつづく。

荒川沿いの廃村を歩く(その2 川越市握津)

※この記事は2007年10月頃に訪問した際の記録です。そのため、現状は変わっている部分もあるかもしれません。

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 続いてやってきたのは川越市古谷上字握津(あくつ)という地区。川越市ではあるが、荒川の左岸にあり、川越の飛び地のようになっている。ここも堤外集落だったところで、塚本の集落よりも最近まで人が住んでいた。川越市の広報紙によれば、2006年3月31日に全戸移転が完了したそうだ。

 場所は下の地図の辺りである。川越線指扇駅の北西2キロぐらいのところで、リハビリセンター行きのバスがあるが、バス停から遠い。しかし、宝来運動公園の駐車場を利用できるので、車で行くのには好都合である(もっとも廃村なので、どこに置こうがかまわないようなものだが)。

 荒川の堤防を越え、河川敷に入る。浦和の塚本もそうだったが、ここもやはり、何十年かタイムスリップしたような気持ちになる。



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堤防の斜面では牛が草を食んでいた。堤防を越えても広大な耕地が広がるのは、やっぱり不思議な感じがする。

 この握津も、塚本と同様に家屋はすべて取り壊されて残っていないが、公民館とその裏の御堂だけは壊されずに残っている。
 歴史的農業環境閲覧システムというサイトで明治初期の地図を見ることができるが、それによると、握津と対岸の老袋(おいぶくろ)の間に老袋の渡しという渡船があって、大宮と川越とを結ぶ、交通の要衝であったらしい。大宮と川越を結ぶルートは、この老袋の渡しと、現在の国道16号上江橋の位置にあった千手堂の渡しだけだったようなので、今では見る影もないが、渡し場としてかなり賑わったのではないだろうか。道幅は、もしかしたら江戸時代からそのままなのかもしれない。

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握津のメインストリート。少し先に立っている馬頭観音の角を曲がると公民館。残っている建物は公民館と、その裏の御堂だけ。
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道標を兼ねた馬頭観音像。「西」の下の2文字が読めない。

 公民館へ入る道の角のちょっと先に、道標を兼ねた馬頭観音がある。道標には天明2(1782)年の銘があり、

 西 川越 ●●やま ちヽふ 道

と彫られている。「ちヽふ」は秩父だが、「●●やま」がどうしても読み解けない。ここから西で、「山」がつく重要地名は「まつやま(現・東松山)」しかないと思われるのだが、どうもそうではないみたい。どなたか読める方がいらっしゃれば、教えていただきたい。いずれにしろ、ここから遠く離れた秩父への道案内がされるほど、重要な交通路であり、この辺りが村の中心地だったことがわかる。

 かつて多くの人が通ったであろう古道を行く。増水時の被害を少しでも減らす工夫なのだろう。屋敷地にはすべて1メートルぐらいの盛り土がされ、その上に家が建っていたようである。

 さらに進むと、荒川と並行する新しい道に突き当たり、握津の集落は終わる。その先、荒川までの間は大宮国際カントリークラブというゴルフ場になっている。入口で係の人に断って中に入らせてもらい、荒川の水位はどの程度なのか、見させてもらった。
 どうやら、浦和の堤外集落に比べると水面からの比高は高いようだ。とはいっても、せいぜい2メートルぐらいのもので、台風や集中豪雨ともなれば、集落まで冠水してしまうのは明らかだ。最近では1999年8月の台風による大洪水が発生し、それが全戸移転のきっかけとなったのだという。

 ところでこのゴルフ場、対岸の、荒川と入間川に挟まれた狭い敷地にもコースがあるが、クラブハウス等の施設はこちら側(握津側)にしかない。両岸を結ぶ橋はないので、渡し船で対岸へ渡るようになっている。奇しくも、老袋の渡しをそのままの位置で再現した格好だが、ゴルフ場利用者以外は乗船できない。


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ゴルフ場に突き当たって道は終わる。その昔は、渡し場を経て川越へ通じる街道だった。現代に受け継がれた老袋の渡し。ただしゴルフ場利用者専用。
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集落内の別の道にて。左の坂道が屋敷地の入口。家は盛り土の上に建っていた。今にも右の角から軽トラが出てきそうな風景。


 塚本と握津、2つの堤外廃村を歩いてみたが、どちらも堤外という特殊な立地のせいで開発が行われず、本当にタイムスリップしたかのような自然が残っている。塚本ではタヌキに会い、握津の空はトビが舞っていた。自然観察会のようなものも時おり開かれているようだが、この自然はぜひとも残していってほしい。そして、自然を守るのと同時に、かつてそこに人の営みがあったということを、ぜひとも語り継いでほしいと思う。

 今では廃村になってしまった歴史ある集落を歩いてみて、そんなことを思った。

 荒川沿いの廃村を歩く―おわり

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2009/6/13 追記
 読めなかった道標の文字、解決しました。こちらをご覧下さい。

被写界深度を調整する。

 写真の被写界深度を浅く調整することができるフリーソフトを拾ってきた。

…それって、何よ?と。ごもっとも。

 被写界深度とは、写真の中の、ピントが合っている領域の広さのことだそうで、風景を撮った写真のように、広い範囲にピントが合っているように見えるのは「被写界深度が深い」と言って、逆に、マクロモードを使って近くの小さいものを撮ったような写真は、「被写界深度が浅い」というのだそうだ。

 今回拾ってきたフリーソフトは「Mini+Tune」というもの。これを使って、被写界深度を浅く加工する。 するとどうなるか。マクロモードを使って接写した写真のようになるわけなので、実際の風景を撮った写真が、あたかもミニチュアを撮影したような写真になるということ。
 それを使って、いろいろと加工してみた。そして、どんな写真がミニチュア化に適しているのか研究してみた。


 まず、中心と背景とのピントの差で、ミニチュアっぽさが出るわけだから、背景のないものはダメ。それから、曇り空や霧の中など、そもそも全体ぼやけているものはダメらしい。

himono.jpg echigo_bus.jpg 
網に乗った干物。背景がないから、ミニチュアっぽさは出ないらしい。 雪のせいで被写体自体も霞んでいるため、これもダメ。


 次。ミニチュアってのは、通常、動かないものである。だから、中心と背景のピントの差があったとしても、動きのある写真も、どうもダメらしい。

odori.jpg
小人が踊ってるみたいでちょっと変な感じだ。


 なるほど。躍動感がなく、奥行きがあるものが、適しているらしいことが分かってきた。奥行きがあれば、室内でもかまわないのだろう。

kotatsu.jpg pantoka.jpg 
冬に訪れた旅館の部屋。まるで食玩コレクション。 いかにも食玩っぽいのもやってみた。なかなか悪くない。


 室内で撮影した写真を加工すると、食玩風になる。ただ被写体を撮るのではなく、奥行きを作るために、被写体は手前においてある程度離れて撮るのがよさそうだ。

 では、屋外に出てみよう。 というか、これまでどこかへ行った折に撮った写真を加工してみる。

chichibu.jpg bessho.jpg 
秩父の山村。 奥行きのある写真はけっこういいらしい。ごみごみしてるとそれっぽく見えるか?と思ったけど、そうでもなかった。別所温泉にて。

 左の秩父はいいが、右の別所温泉は奥行きがあって動きがないのに、あんまりミニチュアっぽく見えない。どうやら、自分がそこに立って撮影していると、いけないのか?とも思う。

 ということで、次の2枚。どうもその推測は当たっているようで、自分はその場に入り込まず、遠目に眺めているという要素を加えると、いっそうミニチュアっぽくなるようだ。

pusan_accident.jpg asaka_jieitai.jpg 
プサンで遭遇した交通事故。旅館の窓から見下ろして撮影したのが吉。朝霞駐屯地で行われた大砲コンサート。まるでおもちゃの兵隊。

 ミニチュアっぽさで言えば、プサンの交通事故も捨てがたいが、それはちょっと状況が残念な写真なので、最高傑作としては、やはり朝霞駐屯地の大砲写真だろうか。どちらもかなりおもちゃっぽい。

 背景に奥行きがあって、あまり動きがなく、遠目に撮った写真が、ミニチュアにするには適しているということがわかった。そのうち気が向いたらまたやってみる。

円筒分水再訪

 一昨年の9月に、千葉県東金市と多古町にある円筒分水を訪ねてきて、記事を書いた。

 田んぼに水を引く施設を見に行ったのに、全然時期を考えずに稲刈りのシーズンに行ってしまい、その時はすっからかんに乾いていた(→こんなありさま)。

 そりゃそうだ。こんな時期に来てどうする!ということで、次はもっと早く、田んぼに水を張る時期に行きましょうということで、今回の再訪となった。そうしてやっと、派手に水が放出される様子を見ることができた。

 …というのはちょっと事実とは異なっていて、実は去年も今回と同じ、私と豊四季さんとT子さんの3人で来ていた。それは6月中旬のこと。うちの近所、埼玉では5月下旬から6月中旬にかけて田植えをするのだが、暖かい千葉の田んぼでは、もうすっかりできあがっちゃっていて、新たに水を汲み入れてはいなかった。
 円筒分水はジャバジャバしてないので、水路を遡り、利根川の取水口まで行ってみたりした。それはそれで楽しかったが、さらに1年が経過し、去年よりも1ヶ月ほど早い今日、またまた行ってみた次第。だから、再訪ではなく再々訪である。

 去年は利根川までさかのぼったので、今回は両総用水を下ってみ見てみようということになって、まずは多古の円筒分水から見にきた。3回目の訪問だが、この高台に登るときは、いつもドキドキする。

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今年はジャバジャバやってくれてました。広い田んぼを小高い丘の上。ここは立地がよい。

 今年はここで、ちょっとしたお楽しみが。それは、ジャバジャバを前にして、「分水菓子」への入刀の儀。まあ、バウムクーヘンなんですけど。

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「分水菓子」入刀。カメラをお持ちの方はどうぞお集まりください。で、多古円筒分水の分水比率はこういう感じ。

 切り分けた分水菓子をご列席の皆様でいただきつつ、次のポイントへ。せっかくこの時期だから水路が轟々と流れるところを見たいねえ…と思って探したが、地図に開水路として描かれているところも、埋められてしまっていたりして、なかなか見つからない。去年も遡った時もそんな場所あったしね、などと話しながら、ここなら派手に水の流れるのが見えるだろうと思われるところへやってきた。それは成東高校の裏手の高台。

 ところが…、

成東高校裏
ガーン…。(マウスオーバーで気持ちを表現します。クリックすると拡大します)

 埋められていた。豊四季氏が、埋め立て跡の広場で遊ぶ子供たちに聞いたら、2年前まで流れていたという。遅かった…。地面の感触は、土と言うより木屑を敷き詰めたような、なんとも言えないふかふかした感じである。全然草が生えていないところを見ると、工事後、埋め戻されたのは、本当につい最近のことなのだろう。我々ファンに断りもなく、こんなことになってくれていようとは。

 一行、嫌な予感を胸に、東金の円筒分水へ向かう途中で、ひとまず両総用水の見所の一つである公平水路橋を見に行くことにした。その存在は以前から知っていたが、間近に見るのは初めてである。

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かっこいい公平水路橋。5連アーチで長さ305メートル。水路橋の手前の水路。やっぱり埋められていた。

 水路橋の近くの田んぼで作業をしていたおじさんに聞いてみたら、2年前に地中化の工事をして、東金の方までずっともう埋まってしまっているのではないか?との話である。やっぱり、2年前がキモだったらしい。
 後から調べてみたら、施設の老朽化と転落事故防止のため、パイプライン化が進められているのだそうで、水路橋についても廃止しても地中化してしまってもいいのだが、その価値が認められ、橋はそのままにし、中にパイプラインを通す工事をしたとのこと。さすがにこれを壊してしまうのはもったいなさすぎる。


 そして、おなじみ、東金円筒分水。例年のように公平農協の駐車場に車を置かせてもらって、円筒分水に近づいていくと、水の音が聞こえてきた。
 この東金の円筒分水では、求名支線、田間支線、豊海片貝線の3線に分流しているが、最も大きな比率(80%以上と思われる)で分けている豊海片貝線の部分には、仕切りのような板がはめられて、流れていない。
 これもまた調べてみたら一昨年、2007年に九十九里平野へ水を供給する東部幹線用水路が完成、去年から通水が始まったとのこと。それで、豊海片貝線は必要なくなったということのようだ。確かに、去年の写真を見てみたら既に板がはめられていて、一昨年の写真に板はなかった。
 またまたそんなことになっていたとは、パイプライン化にしろ、東部幹線用水路の開通にしろ、返す返すも、もっと早く見に来ておかなかったことが悔やまれる。

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大きすぎて写真に収まりきらないのはいつものこと。東金の人々は、この存在をもっと誇っていいぞ。
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でも、豊海片貝線には流れていなくて、しょぼーん… 

 さて地中化工事の進む両総用水。水の流れる姿を一目でいいから見させておくれよ、と、まだ開水路のままの箇所を探して埋められた水路に沿った道を行く。そして、地中化工事の最前線にたどり着いた。
 場所は東金市山口というところ。山口橋という橋までが地中化済みの区間で、そこから先でやっと、水の流れを見ることができた。でも、だいぶ下流なので、水量は多くない(通常、川の下流が水量が多いが、用水路は下流へ行くほど水量が少なくなる)。


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山口橋から下流を眺める。

 写真は取り損ねたが、橋の反対側の地中化済み部分の脇には、工事用の資材なのか、シートをかぶせられて山のように積まれている。春の通水が終わったら、さっそく工事が始まるのかもしれない。
 事故防止や老朽化という問題を考えると仕方ないけど、来年来たら、もうすっかり埋まってしまっているのだろうなあ、と思うと、ちょっとさびしくなった。

 もうちょっと先まで行ってみようということで、茂原市に入る辺りまで行ってみた。そうしたら、両総用水とは関係ないけど、面白いものを見つけた。

 つづく

地名から読み取る歴史の件

 地名には、往々にして何らかの歴史やドラマがこめられているものである。「確かではないが、これが由来であるらしい」と言われている説があったり、由来はわからなくても、古い文献などから「この時代には既にそう呼ばれていた」というのが明らかになっていたりして、私みたいな人が、そんな昔のことを想像してニヤニヤすることができる。

 私の住む「埼玉」を例にとると、「続日本紀(しょくにほんぎ)」の天平5年6月の項に「武藏國埼玉郡」という記述があるのが最初だそうだ。天平5年とは西暦では733年。遣唐使として唐に渡った阿倍仲麻呂が、いつかは再び祖国の土を踏むことを夢見て、百人一首の有名な歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」を詠んだ、だいたいそんな時期である。
 また、「埼玉」の読み方については、万葉集では「佐吉多万」、日本最古の百科事典である和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)では「佐伊太万」と書かれていることから、両者の成立年代からざっと数えて、700年代後半から900年代前半の間に、「さきたま」から「さいたま」に変わってきたことがわかるという。

 と、かようにも地名とは「ドラマ性」を持つものであり、近所の町名・大字レベルでも、「埼玉」ほどではないにしても、探せば何らかのドラマを見つけることができる。「緑が丘」みたいな新しい地名だって、「30年前に町内で相談して決めました。あの時はなかなか決まらなくて大変でした」なんてのも一つのドラマだと思う。


 前置きが長くなったが、一方で、ドラマ性を一切感じられない地名というのがある。

 埼玉県の北本市(きたもとし)。大宮と熊谷のほぼ中間ぐらいで、高崎線の北本駅がある。快速電車が時間帯によって停まったり停まらなかったりと、そのぐらいの重さの市だ。道路で言えば、国道17号線―昔の中山道が通っている。
 現在、北本と呼ばれているこの地だが、戦国時代まで、ここには鴻巣(こうのす)という村があったそうだ。しかし、現在では北本と鴻巣は違うところで、東京から行くと、北本の次が鴻巣である。これはどういうことか。

 徳川家康が江戸幕府を立て、江戸から伸びる五つの街道を整備した。その一つが、この地を通る中山道であった。もともと存在した比較的大きい村落を宿場として整備しようとしたが、桶川と鴻巣(現・北本)が近すぎた。そこで、慶長7(1602)年、幕府の命によって鴻巣村は高崎方面に4キロほど移転させられ、鴻巣宿となった。これが現在の鴻巣市の前身である。
 これによって、公式の宿場ではなくなってしまった旧・鴻巣村だが、さら地になってしまう訳ではなく、町場としての機能は残った。そして、もともと鴻巣宿があったところなので、本宿(もとじゅく)村と呼ばれることになった。

 時は流れて明治11(1878)年のこと。「郡区町村編制法」という法律によって、「県」の下の行政単位として「郡」が制定された。この時、本宿村は北足立郡に含まれることになったが、ここで困った事態が発生した。同じ北足立郡内にもう一つ、字は違えども読みがいっしょの「元宿村」があったのである。
 そこで、その2つの「もとじゅくむら」を区別するために、位置関係で区別し、本宿村を「北本宿村」、元宿村を「南元宿村」と改名した。なお、南元宿村は、現在のさいたま市の西部、埼京線南与野駅の近くで、桜区南元宿一丁目・二丁目として現存している。南元宿の人は「北はどこだろう?」と思っているかも知れない。

 そして明治22(1889)年、「町村制」の施行によって、北本宿村は、「北足立郡石戸村大字北本宿」となり、昭和18(1943)年に石戸村と中丸村が合併して、「北足立郡北本宿村大字北本宿」となった(北が3つもあるな)。

 私は、その次の展開に問題があったと思うのだが、昭和34(1959)年の町制施行にあたり、北本市ホームページによると「語呂が長く呼びにくいので」という単純な理由によって「宿」の字を省略してしまって、「北足立郡北本町」となり、駅も学校も郵便局も、みな「北本宿」から「北本」に改められた。その後、昭和46(1971)年に「北本市」となり、今に至っている。


 整理すると、

戦国時代までは「鴻巣」
          ↓
元・鴻巣宿のあったところだから「本宿」
          ↓
もう一つの「もとじゅく」と区別するため「北本宿」
          ↓
長くて呼びにくいから、「宿」の字を外して「北本」

ということになる。もはや、「北」にも「本」にも、何も意味が含まれていない。

 そうして、現在では「北本市」として、地元の人を除いては、本来は「北本宿」であったことは(ましてや当地が鴻巣であったことなど)忘れ去られるに至っている。
 「地元の人を除いては、」と書いたのは、実は、市名が「北本」である一方、大字としての「北本宿」は生きていて、「北本市大字北本宿」という住所が残っているのである。かと思えば、市名を由来として名づけられた「北本市北本」という町名もある。省略形である「北本」の方が知名度の高くなった現在においては、区切り位置が、本来の「北・本宿」ではなく「北本・宿」のように感じられ、あたかも「北本」という名の宿場があったようにも誤解しやすいという、なんともむずがゆい状況になってしまった。

 このように「北本」という地名は、行政の意思に従って変化してきた末に、(もしかしたら、その頃すでに省略形が一般化していたのかもしれないが)「もともとここには宿場があった」という歴史を示す拠り所である「宿」の字を、自らの手で消してしまったという、冒頭に書いたような地名をめぐる歴史的ドラマを感じさせるものが一切ない、変わったタイプの地名である。
 また、北本は旧・鴻巣であるが、移転以前の鴻巣も含めて「鴻巣の歴史」ということになり、鴻巣という地名の由来などは鴻巣側で語られることになるだろう。そうなると、北本にとっては語れるものがない。まあ、北本市の住民でもない私がとやかく言うことではないが、地名から読み取れるドラマを愛好する者として、いろんな意味で残念だと思う。


 話は変わるが、東京都内の国道122号線、王子から赤羽の間を「北本通り」という。北区のメインストリートなので「きたほんどおり」なのだが、これを「荒川を渡って北上すれば北本に達するから」という理由から、「きたもとどおり」だと思っている人が少なからずいるらしい。これも区切り位置を誤って、「北・本通り」を「北本・通り」と認識してしまった例である。この原因としては、「本通り」という東京ではあまり使われない言葉を通り名に採用したこともあると思うが、やはり、何より「北本」という地名の存在が大きいと思う。
 しかし、この区切りミスには、根本的な誤認が潜在していて、国道122号線は、岩槻を経由して蓮田方面へ向かい、北本は通らない。北本を通るのはもちろん中山道こと国道17号線である。これも、なんだか残念な話である。

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きちい

Author:きちい
すみか:埼玉県。川口みたいで、浦和みたいで、越谷みたいで、岩槻みたいなあの辺。
好きなこと:ぷらっとそのへんへ出かけること。もちろん遠くへ出かけることも好き。おいしいものを作ることも好き。
なりわい:細々と韓国語の翻訳をやってます。詳しくはこちら

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