韓国語は大変
前回お話ししたように、韓国語は日本人にとって、比較的易しい外国語です。
しかし、韓国語の翻訳というのは難しいのです。中国語よりも簡単だと言っておきながら、どういうことか。
ここ数年、外国人観光客の増加を受けて、観光客向けに「日本国内で使用する韓国語表記」の仕事が多くなっています。観光地へ行っても、英語のほか、中国語や韓国語の案内表示をよく見かけますし、多言語表記のガイドマップやフリーペーパーなども多く発行されています。
それ以外にも、外国人が多く居住する地域では、公共の案内表示や広報物が多言語表記になってるなんてこともよくあります。
ところが、困ったことに、韓国語に関しては、それを表示したり印刷物として発行している自治体や企業、あるいはそれらを製作する担当者が、「何と書かれているのかわからない」のです。中国語の場合、「読めないけど、なんかこの部分、違ってない?」という気配を感じることもありそうですが、ハングルはそうはいきません。
そのため、どうなるかというと、スケジュールや予算の問題などで、翻訳者が訳した後、校正者のチェックが入らないような場合は、翻訳者が誤訳をしたら、そのまま通ってしまいます。
また、翻訳・校正の段階で正しい原稿であったとしても、途中に手書きの修正が入ったとか、その他何らかの工程上の都合で、上がってきた原稿をそのまま組版に使用しないような場合に、字を間違って当ててしまうケースもあります。
観光地の案内であれば、それを見た韓国人は、その後すぐ帰国してしまうので、間違いの指摘はされません。また、居住者向けの案内表示の場合も、間違っていても言いたいことはわかるし、外国人がわざわざ役所に連絡して間違いを指摘するとは思えません。
そのため、間違った表記はそのまま、そこに残り続けることになります。
先月の下旬、弘前城の桜を見に行ってきました。時は「さくらまつり」の真っ最中。外国人の姿も多く、英語をはじめ、中国語、韓国語、タイ語、ベトナム語など、さまざまな外国語が飛び交っていました。
公園内の案内図は、英語、中国語(簡体字・繁体字)、韓国語の多言語表記になっているのですが、こんなのを見つけました。

「北の郭(くるわ)」というのは弘前城の本丸に続く北側の城郭です。ところが、この韓国語、「キタノクルワ遊郭」と書かれているんです。「くるわ」は、落語の「くるわばなし」のように、「遊郭」という意味で使われることもありますが、「北の郭」の場合は「城郭」と訳すのが適切です。この案内図がいつからあるのかは分かりませんが、設置者が読めないので、この大きな間違いに気づかれません。
これが韓国語翻訳の難しいところです。中国語の翻訳者が「遊郭」の意味で誤訳した場合、おそらく「妓」という字が入りそうですが、そうであれば、担当者も「なんか違うんじゃね?」と気付けたかもしれません。
翻訳者として、わざわざ日本を訪れてくれた人に、みっともない間違いを見せたくはないので、こういうのを見つけたら、設置者に連絡することにしています。
弘前城の例は、誤訳がそのまま通ってしまった例ですが、私の地元、松戸市には、看板製作の段階で間違った字が当てられてしまったものがあります。
駅前広場によく立てられている注意書きです。

文字が間違っている箇所を赤くして、正しく書いてみると、
이 장소에서는 물건을 판매하거나 설치・배부하는 것을 금지합니다
となります。ㅇとㅁの区別が曖昧なところを見ると、原稿が手書きだったのかもしれません。韓国のホテルで、ルームサービスの案内に「ビール」と書くべきところを「ゼール」と書いてあったのを見たことがありますが、それと同じことでしょう。
加えて、文節ごとにスペースを空ける「分かち書き」も正しくなく、内容の上でも、日本語版に書かれている「許可なく」が抜けていて、意味が不十分です。
中国語も、意味は通じますが、「許可されてないとね、」みたいな感じの口語調で、書き言葉としては不適切です。文の作り方から察するに、日本人が訳したのではないかと思います。
松戸市の場合、同じ看板でも、正しい文章を貼って修正してある所もあるし、間違ったままの所もあるので、「ま、別にいいや」と思って、市には連絡していません。
そんな訳で、韓国語の翻訳は、ある意味、難しいという話です。

弘前城から見た、桜越しの岩木山。the日本。
しかし、韓国語の翻訳というのは難しいのです。中国語よりも簡単だと言っておきながら、どういうことか。
ここ数年、外国人観光客の増加を受けて、観光客向けに「日本国内で使用する韓国語表記」の仕事が多くなっています。観光地へ行っても、英語のほか、中国語や韓国語の案内表示をよく見かけますし、多言語表記のガイドマップやフリーペーパーなども多く発行されています。
それ以外にも、外国人が多く居住する地域では、公共の案内表示や広報物が多言語表記になってるなんてこともよくあります。
ところが、困ったことに、韓国語に関しては、それを表示したり印刷物として発行している自治体や企業、あるいはそれらを製作する担当者が、「何と書かれているのかわからない」のです。中国語の場合、「読めないけど、なんかこの部分、違ってない?」という気配を感じることもありそうですが、ハングルはそうはいきません。
そのため、どうなるかというと、スケジュールや予算の問題などで、翻訳者が訳した後、校正者のチェックが入らないような場合は、翻訳者が誤訳をしたら、そのまま通ってしまいます。
また、翻訳・校正の段階で正しい原稿であったとしても、途中に手書きの修正が入ったとか、その他何らかの工程上の都合で、上がってきた原稿をそのまま組版に使用しないような場合に、字を間違って当ててしまうケースもあります。
観光地の案内であれば、それを見た韓国人は、その後すぐ帰国してしまうので、間違いの指摘はされません。また、居住者向けの案内表示の場合も、間違っていても言いたいことはわかるし、外国人がわざわざ役所に連絡して間違いを指摘するとは思えません。
そのため、間違った表記はそのまま、そこに残り続けることになります。
先月の下旬、弘前城の桜を見に行ってきました。時は「さくらまつり」の真っ最中。外国人の姿も多く、英語をはじめ、中国語、韓国語、タイ語、ベトナム語など、さまざまな外国語が飛び交っていました。
公園内の案内図は、英語、中国語(簡体字・繁体字)、韓国語の多言語表記になっているのですが、こんなのを見つけました。

「北の郭(くるわ)」というのは弘前城の本丸に続く北側の城郭です。ところが、この韓国語、「キタノクルワ遊郭」と書かれているんです。「くるわ」は、落語の「くるわばなし」のように、「遊郭」という意味で使われることもありますが、「北の郭」の場合は「城郭」と訳すのが適切です。この案内図がいつからあるのかは分かりませんが、設置者が読めないので、この大きな間違いに気づかれません。
これが韓国語翻訳の難しいところです。中国語の翻訳者が「遊郭」の意味で誤訳した場合、おそらく「妓」という字が入りそうですが、そうであれば、担当者も「なんか違うんじゃね?」と気付けたかもしれません。
翻訳者として、わざわざ日本を訪れてくれた人に、みっともない間違いを見せたくはないので、こういうのを見つけたら、設置者に連絡することにしています。
弘前城の例は、誤訳がそのまま通ってしまった例ですが、私の地元、松戸市には、看板製作の段階で間違った字が当てられてしまったものがあります。
駅前広場によく立てられている注意書きです。

文字が間違っている箇所を赤くして、正しく書いてみると、
이 장소에서는 물건을 판매하거나 설치・배부하는 것을 금지합니다
となります。ㅇとㅁの区別が曖昧なところを見ると、原稿が手書きだったのかもしれません。韓国のホテルで、ルームサービスの案内に「ビール」と書くべきところを「ゼール」と書いてあったのを見たことがありますが、それと同じことでしょう。
加えて、文節ごとにスペースを空ける「分かち書き」も正しくなく、内容の上でも、日本語版に書かれている「許可なく」が抜けていて、意味が不十分です。
中国語も、意味は通じますが、「許可されてないとね、」みたいな感じの口語調で、書き言葉としては不適切です。文の作り方から察するに、日本人が訳したのではないかと思います。
松戸市の場合、同じ看板でも、正しい文章を貼って修正してある所もあるし、間違ったままの所もあるので、「ま、別にいいや」と思って、市には連絡していません。
そんな訳で、韓国語の翻訳は、ある意味、難しいという話です。

弘前城から見た、桜越しの岩木山。the日本。
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言葉って面白い
日本語と韓国語は非常によく似ています。
文法構造はほとんど同じですし、語彙も特に漢字語を中心に同じものが多いので、日本人と韓国人とでは、互いの言語を比較的容易に習得できます。
私はもともと、韓国語の翻訳業務のみをやっていましたが、日本語とは構造や考え方が全く異なる中国語の翻訳を始めて、その難易度の高さにぶつかったとき、「これまで、楽な仕事でお金もらっててすみませんでした」という気持ちになりました。
昨年10月まで北京で中国語を学んでいましたが、日本人と韓国人のクラスメイトの間では、それぞれ互いの言語の方が、中国語よりも習得が早かったほどです。
どのぐらい似ているかというと、
約束 - 약속(ヤクソク)
調味料 - 조미료(チョミリョ)
高速道路 - 고속도로(コソクトロ)
とか。ほかにも様々ありますが、たぶん、韓国語を知らない人が聞き流していても、「今、高速道路って言った?」って聞き取れるぐらいです。音だけでなく、たいがいの漢字語は、意味も一緒です。
日本と朝鮮半島は、中国から漢字の読みと意味が伝来した時期が近く、さらに、日韓間で直接伝わったものも多いため、このように似たものが多いのです。
一方、本家中国では、その後長い時間を経て、意味も読みも変化しました。例えば「約束」の場合、日韓間では読みも意味も同じですが、現代中国語では「ユエシュー」と読み、「束縛する、制限する」という意味で使われます。
つまり、現代中国語へと変化してくる間のある時期における古い形が、日本語と韓国語に残っている訳です。この現象は中国の方言にも存在し、古い形を残す福建語や広東語などでも日本語や韓国語と近い発音があったりします。
そういうような訳で、漢字語については、日韓間で似たものがあるのは容易に理解できます。
ところが、漢字語ではない固有語(日本語の場合、「和語」と言ったりしますが)にも、不思議なことに、互いに音は違うものの、意味範囲が似てるものが多いのです。例えば、
かける - 걸다(コルダ) 物を(壁とかに)掛ける、鍵をかける、命を懸ける、会議にかける、エンジンをかける、望みをかける、電話をかける
きく - 듣다(トゥッタ) 音を聞く、薬が効く
め - 눈(ヌン) (身体の)目、(網やかごの)目、草木の芽
などなど。英語を思い浮かべてみると、上の「かける」で挙げた動詞が全て同じであるはずがありません。hang、lock、start、callなど、場面によってさまざまな訳が考えられます。
ところが、韓国語では多くの場合、「かける」は「걸다(コルダ)」でいいんです。「きく」にしても、「音を聞く」と「薬が効く」、動作としてどこにも共通点はないはずなのですが、韓国語でもこの2つの動作は、「듣다(トゥッタ)」という同じ動詞を使うのです。それから、
~てみる - ~보다(ポダ)
試しにちょっとやってみるという時に使う「~てみる」と「(目で)見る」には、動作として共通点はありません。韓国語で「~てみる」というのは「~보다(ポダ)」と言いますが、この「보다(ポダ)」を単独で使うと、「見る」という意味になります。
古代のラテン語から派生してイタリア語やスペイン語ができたように、どちらかが先にあって、それがもう一方に伝わったというのであれば、意味範囲だけではなく、発音の上でも共通点があるはずです。しかし、「きく」と「듣다(トゥッタ)」には発音上の共通点がありません。
意味だけが似通っていて音が全然違うということは、どちらかが起源ということは言えません。でも、このような意味範囲の類似性ということを考えてみると、おそらく、日本語と韓国語という2つの言語が発生した非常に古い時代、この2つの民族は、何か身の回りの事象に対する、非常に似通った感覚を持っていたということなのだろうと思います。
これほど似ているのに、日本語と韓国語は系統的に謎の言語と言われ、いまだに、どこから来たのか、その親戚関係が解明されていません。でも、なんとなく、これからも解明されないような気がするし、不思議なままでいいような気もします。
文法構造はほとんど同じですし、語彙も特に漢字語を中心に同じものが多いので、日本人と韓国人とでは、互いの言語を比較的容易に習得できます。
私はもともと、韓国語の翻訳業務のみをやっていましたが、日本語とは構造や考え方が全く異なる中国語の翻訳を始めて、その難易度の高さにぶつかったとき、「これまで、楽な仕事でお金もらっててすみませんでした」という気持ちになりました。
昨年10月まで北京で中国語を学んでいましたが、日本人と韓国人のクラスメイトの間では、それぞれ互いの言語の方が、中国語よりも習得が早かったほどです。
どのぐらい似ているかというと、
約束 - 약속(ヤクソク)
調味料 - 조미료(チョミリョ)
高速道路 - 고속도로(コソクトロ)
とか。ほかにも様々ありますが、たぶん、韓国語を知らない人が聞き流していても、「今、高速道路って言った?」って聞き取れるぐらいです。音だけでなく、たいがいの漢字語は、意味も一緒です。
日本と朝鮮半島は、中国から漢字の読みと意味が伝来した時期が近く、さらに、日韓間で直接伝わったものも多いため、このように似たものが多いのです。
一方、本家中国では、その後長い時間を経て、意味も読みも変化しました。例えば「約束」の場合、日韓間では読みも意味も同じですが、現代中国語では「ユエシュー」と読み、「束縛する、制限する」という意味で使われます。
つまり、現代中国語へと変化してくる間のある時期における古い形が、日本語と韓国語に残っている訳です。この現象は中国の方言にも存在し、古い形を残す福建語や広東語などでも日本語や韓国語と近い発音があったりします。
そういうような訳で、漢字語については、日韓間で似たものがあるのは容易に理解できます。
ところが、漢字語ではない固有語(日本語の場合、「和語」と言ったりしますが)にも、不思議なことに、互いに音は違うものの、意味範囲が似てるものが多いのです。例えば、
かける - 걸다(コルダ) 物を(壁とかに)掛ける、鍵をかける、命を懸ける、会議にかける、エンジンをかける、望みをかける、電話をかける
きく - 듣다(トゥッタ) 音を聞く、薬が効く
め - 눈(ヌン) (身体の)目、(網やかごの)目、草木の芽
などなど。英語を思い浮かべてみると、上の「かける」で挙げた動詞が全て同じであるはずがありません。hang、lock、start、callなど、場面によってさまざまな訳が考えられます。
ところが、韓国語では多くの場合、「かける」は「걸다(コルダ)」でいいんです。「きく」にしても、「音を聞く」と「薬が効く」、動作としてどこにも共通点はないはずなのですが、韓国語でもこの2つの動作は、「듣다(トゥッタ)」という同じ動詞を使うのです。それから、
~てみる - ~보다(ポダ)
試しにちょっとやってみるという時に使う「~てみる」と「(目で)見る」には、動作として共通点はありません。韓国語で「~てみる」というのは「~보다(ポダ)」と言いますが、この「보다(ポダ)」を単独で使うと、「見る」という意味になります。
古代のラテン語から派生してイタリア語やスペイン語ができたように、どちらかが先にあって、それがもう一方に伝わったというのであれば、意味範囲だけではなく、発音の上でも共通点があるはずです。しかし、「きく」と「듣다(トゥッタ)」には発音上の共通点がありません。
意味だけが似通っていて音が全然違うということは、どちらかが起源ということは言えません。でも、このような意味範囲の類似性ということを考えてみると、おそらく、日本語と韓国語という2つの言語が発生した非常に古い時代、この2つの民族は、何か身の回りの事象に対する、非常に似通った感覚を持っていたということなのだろうと思います。
これほど似ているのに、日本語と韓国語は系統的に謎の言語と言われ、いまだに、どこから来たのか、その親戚関係が解明されていません。でも、なんとなく、これからも解明されないような気がするし、不思議なままでいいような気もします。
幸せな時間
一昨日のこと。
夕方、天王洲アイルの銀河劇場へ、「廣瀬智紀 & 入来茉里」ペア出演の朗読劇「私の頭の中の消しゴム」を見に行ってきました。
ストーリーは、知ってる方も多いと思いますが、ほんとにざっくり言うと、
妻「薫」は、若年性アルツハイマー病にかかり、あんなに好きで好きでたまらなかった夫「浩介」のことさえ徐々に忘れてゆく。でも時々、ふと記憶を取り戻し、「私には時間がないの」と、その時に覚えていることを記録し、伝えたいことを伝えようとする。…でも、やっぱり徐々に、確実に、あらゆることを忘れてゆく。そして最後、もう何もかもわからなくなった薫が、記憶のとても深い所に自分を残しておいてくれていたことを、浩介は知る。 ~ fin ~
と、そんな話です。
とても悲しく美しい純愛劇で、とってもいい話なんですが、このタイトルは如何なものか、と思うんですよね。
韓国の脚本家が付けたタイトルなのですが、韓国語って、日本語とほぼ同じ文法構造ながら、助詞「の」を省略する傾向が強いのです。厳密に言うと難しいので端折りますが、原題では「の」に相当する助詞は1つしか入りません。それを直訳したために「の」「の」「の」となってしまい、それに、「消しゴム」という語も色気に欠ける気がするし、なんか、モヤモヤする邦題です。
それはさておき、
3日前、つまり観劇の前の晩のこと。
チケットを確認しました。私は、日時や場所などの約束ごとに関しては本当に自信がない(→参考)ので、5月5日のチケットなのか、明日は本当に5月5日なのか、場所は銀河劇場で間違いないのか、開演時間は何時か…
そして、席の記載に目をやると…1階A列20番。ふーん、どの辺なんだろう?
銀河劇場のWebサイトで確認します。
なんと、最前列でした。それもほぼ中央。
そりゃそうだ、1階A列だもん。見た時点でだいたい気付けって話で。
これまで「なんとなくこんな話」とだけ知っていて、映画もドラマも見たことなかったこの作品を見に行くことにしたのは、とにもかくにも、出演する入来ちゃんのファンだからなんですけど、それが最前列って…。それも、朗読劇なので、入来ちゃんはだいたいいつも、すぐ目の前に座ってる訳です。
熱が出そうになりました。そして、とりあえずシャツにアイロンをかけました。
そんな舞台なのに、それまでろくに席の位置も確認していなかったってのもアレなんですが。
そして、当日。
開演前、目の前はこんな景色でした。

開演のベルが鳴り、暗転。幕が開き、明るくなる。立体的な白いセットを背景にして、白い椅子が2脚。やべえ、近い。近すぎる。
席から舞台まで1.5メートルほど。白い椅子は、そこから1.5メートルほど引いた位置にあります。目の前3メートルの位置で入来ちゃん演じる薫がいる。夢のような事態です。
感想文は小学校の頃から苦手でうまく書けませんが、二人の熱演は素晴らしく、葛藤、幸福、不安、疑念、絶望、信念、喪失、真実、永遠…。なんか今思い起こすと、こんな言葉が浮かんでくるけど、手に本を持った朗読ながら、その風景がありありと眼前に浮かんでくるようで、とにかく最高の舞台でした。それを、こんな間近で見させてもらえるなんて、本当に幸せでした。
あまりに近すぎて、劇を見ているというよりも、その場に居合わせているかのように思えてきて、薫がとっちらかってる時など、手を差し伸べて安心させてあげたいような気持ちに何度もなりました。それだけ、劇に入り込んでいたってことなのかも知れません。
「朗読劇+最前列中央」だからこそ、わかったこともありました。
二人が舞台の両端に分かれて立つシーンがあります。そうすると、二人を一緒に見ることはできません。片方を見るのもちょっとしんどいです。でも、朗読劇は、情景を想像しながら見るものなので、見えなくても全然ストレスないんですね。二人の声を聴きながら、空(くう)を眺めたり、時折スクリーンに写し出される風景を見たり、いろんなことを考えたりしながら見てました。
朗読劇って初めて見ましたが、こういう想像しながら見るもの、私、好きみたいです。落語もそうだし、ラジオドラマも好きです。
観劇後はずっと放心状態で、家に帰ってきても、思い出しドキドキ&ため息がおさまりませんでした。
これから1週間ぐらい、だいぶ仕事が忙しくなりそうですが、この幸せを糧にして、乗り切ります。

夕方、天王洲アイルの銀河劇場へ、「廣瀬智紀 & 入来茉里」ペア出演の朗読劇「私の頭の中の消しゴム」を見に行ってきました。
ストーリーは、知ってる方も多いと思いますが、ほんとにざっくり言うと、
妻「薫」は、若年性アルツハイマー病にかかり、あんなに好きで好きでたまらなかった夫「浩介」のことさえ徐々に忘れてゆく。でも時々、ふと記憶を取り戻し、「私には時間がないの」と、その時に覚えていることを記録し、伝えたいことを伝えようとする。…でも、やっぱり徐々に、確実に、あらゆることを忘れてゆく。そして最後、もう何もかもわからなくなった薫が、記憶のとても深い所に自分を残しておいてくれていたことを、浩介は知る。 ~ fin ~
と、そんな話です。
とても悲しく美しい純愛劇で、とってもいい話なんですが、このタイトルは如何なものか、と思うんですよね。
韓国の脚本家が付けたタイトルなのですが、韓国語って、日本語とほぼ同じ文法構造ながら、助詞「の」を省略する傾向が強いのです。厳密に言うと難しいので端折りますが、原題では「の」に相当する助詞は1つしか入りません。それを直訳したために「の」「の」「の」となってしまい、それに、「消しゴム」という語も色気に欠ける気がするし、なんか、モヤモヤする邦題です。
それはさておき、
3日前、つまり観劇の前の晩のこと。
チケットを確認しました。私は、日時や場所などの約束ごとに関しては本当に自信がない(→参考)ので、5月5日のチケットなのか、明日は本当に5月5日なのか、場所は銀河劇場で間違いないのか、開演時間は何時か…
そして、席の記載に目をやると…1階A列20番。ふーん、どの辺なんだろう?
銀河劇場のWebサイトで確認します。
なんと、最前列でした。それもほぼ中央。
そりゃそうだ、1階A列だもん。見た時点でだいたい気付けって話で。
これまで「なんとなくこんな話」とだけ知っていて、映画もドラマも見たことなかったこの作品を見に行くことにしたのは、とにもかくにも、出演する入来ちゃんのファンだからなんですけど、それが最前列って…。それも、朗読劇なので、入来ちゃんはだいたいいつも、すぐ目の前に座ってる訳です。
熱が出そうになりました。そして、とりあえずシャツにアイロンをかけました。
そんな舞台なのに、それまでろくに席の位置も確認していなかったってのもアレなんですが。
そして、当日。
開演前、目の前はこんな景色でした。

開演のベルが鳴り、暗転。幕が開き、明るくなる。立体的な白いセットを背景にして、白い椅子が2脚。やべえ、近い。近すぎる。
席から舞台まで1.5メートルほど。白い椅子は、そこから1.5メートルほど引いた位置にあります。目の前3メートルの位置で入来ちゃん演じる薫がいる。夢のような事態です。
感想文は小学校の頃から苦手でうまく書けませんが、二人の熱演は素晴らしく、葛藤、幸福、不安、疑念、絶望、信念、喪失、真実、永遠…。なんか今思い起こすと、こんな言葉が浮かんでくるけど、手に本を持った朗読ながら、その風景がありありと眼前に浮かんでくるようで、とにかく最高の舞台でした。それを、こんな間近で見させてもらえるなんて、本当に幸せでした。
あまりに近すぎて、劇を見ているというよりも、その場に居合わせているかのように思えてきて、薫がとっちらかってる時など、手を差し伸べて安心させてあげたいような気持ちに何度もなりました。それだけ、劇に入り込んでいたってことなのかも知れません。
「朗読劇+最前列中央」だからこそ、わかったこともありました。
二人が舞台の両端に分かれて立つシーンがあります。そうすると、二人を一緒に見ることはできません。片方を見るのもちょっとしんどいです。でも、朗読劇は、情景を想像しながら見るものなので、見えなくても全然ストレスないんですね。二人の声を聴きながら、空(くう)を眺めたり、時折スクリーンに写し出される風景を見たり、いろんなことを考えたりしながら見てました。
朗読劇って初めて見ましたが、こういう想像しながら見るもの、私、好きみたいです。落語もそうだし、ラジオドラマも好きです。
観劇後はずっと放心状態で、家に帰ってきても、思い出しドキドキ&ため息がおさまりませんでした。
これから1週間ぐらい、だいぶ仕事が忙しくなりそうですが、この幸せを糧にして、乗り切ります。
