fc2ブログ

2016-09

砥沢空想記

20160928tozawa.jpg

これは、今から80年以上前、昭和4年版の群馬県の地形図である。

「利根郡赤城根(あかぎね)村大字根利(ねり)字砥沢(とざわ)」という所で、その後、昭和と平成、二度の市町村合併を経て、現在は「沼田市利根町根利字トザワ」と変わっている。後述の理由により、たぶん今は「トザワ」とカタカナで書くのが正しいのだと思う。

「沼田市利根町根利字トザワ」という地名を見てピンと来た人がいれば、その人はよほどのマニアである。この場所がどういう場所であるのか、それは追って説明する。

地形図によると、「砥澤」は標高1100~1200メートル、その名も「砥沢」という沢の合流地点に開けた小さな集落である。小さいながらも、学校や、地図に描かれるほどの神社もあり、ここで多くの人が暮らし、賑わっていたことが窺い知れる。しかし、現在はといえば、完全に無住の山林である。

下は、今の地形図であるが、1168メートルの標高点が打たれ、傾斜が若干緩くなった場所が砥沢集落跡である。地図の範囲を広げてみると分かるが、国道120号線、吹割の滝近くの追貝(おっかい)集落から栗原川に沿って10キロ以上遡るという、人里離れたものすごい場所である。



なぜ、このようなところにかつて集落があり、今はなくなってしまったのか。


砥沢集落跡の北東に連なる尾根を越えた反対側は栃木県足尾である。

明治の中頃から、古河財閥の手によって足尾銅山の開発が進められ、建物を建てるために大量の木材が必要となった。しかし、足尾周辺の山の木だけではその需要をまかない切れなかった。そこで、明治31年に皇海山(すかいさん)の西麓に古河の手による根利林業所が設けられ、群馬県側の木材が山を越えて足尾へと運ばれた。

そうしてできたのが、砥沢と平滝をはじめとする、いくつかの集落であった。そういう成り立ちであったため、群馬県側との連絡はそもそも必要なかったのである。

しかし、これらの林業所は開設から40年ほどを経てその役目を終え、昭和13年から14年にかけて閉鎖された。そして、働いていた人々も山を下り、元の山林に戻って今に至ると、そういう訳である。国土地理院のWebサイトで航空写真を見ることができるが、最も古くて昭和22年のものなので、砥沢集落の姿を見ることはできない。

「群馬県 砥沢」と検索すると、山登りや渓流釣りを趣味とする人のページがいくつか見つかり、砥沢集落跡を探索したレポートも上がっている。現地には、集落があったことを伝えるステンレス製の記念碑も残されているようである。

さて、そろそろ本題。先ほど述べたように、根利林業所には砥沢ともう一つ、平滝という大きな集落もあったのだが、なぜ敢えて砥沢に重点を置いて語っているのか。それは、砥沢は、現在においても特別な場所だからである。


唐突だが、「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」、いわゆる「風営法」である。これに付随して各都道府県が定める「施行条例」というものがあり、これにより「1号営業」(お風呂屋さん、あるいはソー●ランド)の営業許可区域を定めている。ただし、「既に営業しているものは続けて構わない」というだけで、新規開業が許されている訳ではない。

群馬県が定めた営業許可区域というのは、以下のとおりである。

沼田市利根町根利字トザワ区域と、前橋市、高崎市、桐生市、伊勢崎市、太田市、館林市、渋川市、藤岡市、富岡市、安中市、みどり市、北群馬郡、多野郡、甘楽郡、吾妻郡、利根郡、佐波郡、邑楽郡以外の地域

トザワと表記するのが正式らしいが、なんと、砥沢では現在においても、「お風呂屋さん営業OK」ということになっているのである。

上記の記載を読み解くと、砥沢以外は、「~以外の地域」となっている。ここに書かれた市と郡“以外”となると、もう沼田市しか残っておらず、その沼田市の中でも「トザワ」と名指しされているのだから、群馬県内で唯一、砥沢でだけ、風営法に基づくお風呂屋さんを営業していいということになる。しかし、既に述べたように現在の砥沢は無住の山林であり、当然のことながら、営業中の店舗などあるはずがない。

風営法が施行されたのは昭和23年である。しかし、根利林業所が閉鎖されたのはその10年ほど前であって、法律の施行時には砥沢集落はもう存在していなかった。それなら、なぜ「トザワ」という記述があるのだろうか。

調べてみると、風営法の施行以前は、現在の自治体の条例に相当する府県令に基づいて、警察がそれらの業種を取り締っていたそうで、風営法施行条例の条文作成にあたり、群馬県令の記述をそのまま引き継いだということは想像に難くない。おそらく、県令において、既に「砥沢でだけは営業していいよ」ということが書かれていたのだろう。そうであれば、「砥沢にはそういう店が存在していた」という解釈ができる。

そう考えると、当時の砥沢集落はどんな所だったのだろう?と俄然気になってくる。この辺りからは、私の空想が多分に含まれるので、事実と違う可能性もある。予めご承知おきいただきたい。


林業集落で主として働くのは男たちである。学校があったのだから、家族で移住してきた人もいたのだろうが、独身男性の割合も相当高かったことだろう。全盛期には根利林業所全体で1500人ほどの人が働いていたようだし、男性の数が多ければ、花街が形成されるのは当然の成り行きである。

根利林業所のもう一つの大きな集落であった平滝にも、おそらく飲み屋街はあったであろう。しかし、現在の営業許可区域に「平滝」という地名が残っていないことを考えると、お風呂屋さんがあったのは砥沢だけだったのだろうと思われる。そういう意味で、砥沢は、根利林業所の中でも特別な場所だったのである。

下に貼ったのが、冒頭に載せた昭和4年の地形図全体であるが、左下の紙面ぎりぎりの所に砥沢集落があり、そこから真っ直ぐ北へ、平滝とを結ぶ山道が描かれている。見てのとおり、砥沢と平滝は全く違う、遠く離れた谷筋にあり、尾根伝いに歩いて行ける位置関係ではない。その道のりは、標高1525メートルの延間(えんま)峠を最高地点として、山を都合3つ越えるという途轍もないもので、距離は、おそらく10キロ近くに達するのではないかと思われる。


しかし、祭りの時期ともなると、平滝の男たちはそんな険しい道のりをものともせず、砥沢へやってくる。真っ黒に日焼けした山の男たちが、「砥沢へ繰り出すぞ!」とばかりに、続々と山を越えてくるのだ。

そして、夜の花街には灯がともり、その明るさたるや昼間と見まごうばかり。平滝の男たちは砥沢の仲間たちとの再会を祝し、そして楽しい砥沢の夜を過ごして、翌朝、山を越えて帰っていく。


今から80年近く前まで、砥沢ではそんなことが起きていたのではないだろうか。

誰かに当時の話を聞いてみたいものだが、なにぶん80年前の出来事であり、それも他所から人々が集まってきていた作業場の集落である。居住していた人も、閉鎖後は散り散りになってしまった可能性が高く、当時を知る人に出会うのは相当に困難であると思われる。

群馬方面へ行く機会があれば、図書館で資料を漁ってみようかとも思うが、そんな業種のことが、出版されている書物に詳しく書かれているとは考えにくく、想像の域を出ることはないのかな…と思う。あとは、県文書館とかで、風営法施行条例の元となった県令を定める際の県議会の議事録にあたってみるとか。大変だ。

でも、想像するだけでも十分楽しいので、まあこれでいいのかもしれないけどね。

スポンサーサイト



«  | HOME |  »

プロフィール

きちい

Author:きちい
韓国語と中国語の翻訳をやってます。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する